第二十八回「自業自得って何?」

folder_open大島龍穏, 妙蔵寺たより

2022年4月「妙蔵寺たより 122号」掲載
“ともしび”を語る

本楽寺修徒 大島龍穏

自業自得という言葉があります。これはご存知の通り悪い行いをすれば悪い結果が返ってくるという事で一般的な常識として知られています。

この言葉にはもう一つ、善い行ないをすれば善い結果として返ってくるという意味も含まれています。

ところが世の中や人様にどんなに善い事をしてきた人でも自身や肉親・親しい人の死、あるいは自己破産の憂き目にあったり生きる希望すら失ってしまう事の例が多々あります。

これでは仏様の教えは信じられなくなってしまいますよね。この様な出来事は私達の身のまわりによく聞く事があります。又逆に多くの人を泣かし、自分勝手で自分さえ良ければ何をしてもかまわないとわずかな反省もしない人が、大手を振って社会を渡り歩いています。きっと今に罰が当たると言われている人でも我が世の春を満喫しているのです。

これってとても不公平ですよね。まるで自業自得なんて無いに等しいと思われても、反論する事すらできない矛盾を感じてしまいます。

では善い行ないってどういう事なのでしょうか?人や世の中に迷惑をかけず、良かれと思う事は率先垂範して実行し、人々に安心と喜びを与えるという事なのでしょうか?

勿論それもあると思いますが、その他にも真心をもって正直に生き、人から後ろ指を指されぬ様な真摯な生き方を貫くというのも善い行ないの一つに入るのだと思います。ところが残念ながら前述の様に良き人が何も報われず辛く悲しい目にあってしまうというのも現実です。

私は今でもこの矛盾はどこから起きるのだろうかと、常々考えてきました。そしてやっと一つの結論が、朧げながら見えてきた様な気がしたのです。

善い事をすれば善い結果が生まれるという言葉の真の意味は行為に対する見返りを考えずひたすら奉仕の気持ちでさせて頂くという事が大切なのではないか?と考えるようになりました。

つまり善い事を行なう時にはただただギブ、決してテイクを考えない、という事かも知れませんね。

とは言え私達は凡人ですからそんなきれい事を言われても困るよと思われるかも知れませんが、善い行いをする時には理由も理屈もいりません。ひたすら与える、与えさせて頂く、それだけでいいんですよね。そしてその時こそ仏様のご意志に叶うのではないのでしょうか?

目に見える形であったり、すぐに得られるものではないかもしれませんが、いずれにしろ自身の行為はいつか自身に返ってくるというのは確かのようですね。

大島 龍穏(おおしま りゅうおん)

大島龍穏

1946(昭和21)年生まれ 横須賀市鷹取在住 福井県 本楽寺 修徒
高校卒業後、神奈川県警の警察官となる。様々な死を目の当たりにし、家族を失った遺族の悲しみや苦しみの心に “ともしび” を灯すために横須賀署刑事一課強行犯係長時に警察官を辞め、僧侶となる。全国をまわっての講演や法要等に加え、無料相談所「みちしるべ」を立ち上げ、相談者の悩みを受け止めて解決に導く活動を開始。
現在、久里浜少年院篤志面接院会長。型にはまらない方法で仏教の教えを実践している。著書に『鬼刑事僧侶になる』(サンマーク出版) 『定年出家』(小学館)。
妙蔵寺では「心の時間」を共に主催され、お彼岸やお盆のお経まわりや行事法要をお勤めいただいております。

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