第二十九回「損と得について」

folder_open大島龍穏, 妙蔵寺たより

2022年9月「妙蔵寺たより 123号」掲載
“ともしび” を語る

本楽寺修徒 大島龍穏

達が何等かの行動を起こす時には、まず自分にとって損か得かを考え、当然得になる方を選択しますよね。それは当たり前の事です。ところが本当にそれだけが正解なのでしょうか?

私は決してそうは思っていません。多くの人達は目の前の得に飛びつき、後で後悔する事を少しも考えていないのです。仏教では損と得、勝ちと負け、生と死などは表裏共に一体であると言われています。つまり両者の間には区別はないという事です。教えの中に次の様な逸話があります。
ある男が九十九頭の牛を飼っていました。あと一頭手に入れば念願の百頭にする事ができます。ところがどうしてもその一頭が手に入りません。そこで仲の良かった友人夫婦の家に牛が一頭だけいる事にふと気づきました。

「そうだ、この男の牛を手に入れる事ができれば目標を達する事ができる」と考え、わざとみすぼらしい恰好をして近づき「君は牛を飼っていて豊かな暮しをしているようでとっても羨ましい。そこへいくと私は全財産を失くし明日の食事も取れぬ程生活が苦しい。何とか一頭の牛さえいれば飢え死にしなくてもすむ、どうか君の牛を頂けないだろうか。」と哀れみを乞うとその夫婦は「私達にとっても大切な牛だが、君がそれ程困っているのなら君に差し上げよう。私達は又夫婦で一生懸命働けば何とかなる」とたった一頭の牛を男に与えました。男は何度も何度も頭を下げ涙を流しながら牛を引いて家に帰り、家に着くとボロ着を脱ぎ捨て「しめしめ、これで念願の百頭目を手に入れる事ができた」と大喜びです。一方牛を譲った夫婦は騙されたとも知らず、「これであの男も生きる望みを持つ事ができて本当に良かったね」とこれ又喜んでいました。

騙した男は、百頭に手が届くと、今度は百五十頭、二百頭とその欲望は尽きる事なく常に満足できぬまま生涯苦しみ続けてしまいます。
さあ、人を騙して得をしたと思っていた男と、牛を手放したが友を助ける事ができて満足している夫婦と、どちらが倖せなのでしょうか?
これはつまり、損得だけを生活の指針にするのはあまりにも愚かであるということを表しています。
損得を考えず、自分の信じる生き方に向かっていく事が大切なのかなと思っています。

大島 龍穏(おおしま りゅうおん)

大島龍穏

1946(昭和21)年生まれ 横須賀市鷹取在住 福井県 本楽寺 修徒
高校卒業後、神奈川県警の警察官となる。様々な死を目の当たりにし、家族を失った遺族の悲しみや苦しみの心に “ともしび” を灯すために横須賀署刑事一課強行犯係長時に警察官を辞め、僧侶となる。全国をまわっての講演や法要等に加え、無料相談所「みちしるべ」を立ち上げ、相談者の悩みを受け止めて解決に導く活動を開始。
現在、久里浜少年院篤志面接院会長。型にはまらない方法で仏教の教えを実践している。著書に『鬼刑事僧侶になる』(サンマーク出版) 『定年出家』(小学館)。
妙蔵寺では「心の時間」を共に主催され、お彼岸やお盆のお経まわりや行事法要をお勤めいただいております。

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