第二十六回「ものの見方について」

folder_open大島龍穏, 妙蔵寺たより

2021年7月「妙蔵寺たより 120号」掲載
“ともしび”を語る

本楽寺修徒 大島龍穏

以前、私が刑事だった頃の色は、白か黒しかなかったと書いた事があります。

犯罪捜査上、事実はやったのか、やらなかったのか?という、いわゆる黒か、白かというのがとても大切な色だったからなのです。
しかし僧侶になってからは、白・黒の他に、赤・青・緑等々多くの色があるからこそ、それぞれの色が調和して世の中は成り立っている事に気付かされました。

私は一つの事実を見る時に一方的にもの事を見ているのではないか?と言う疑問に突き当たりました。
例えば忠臣蔵の例を見た時に、赤穂浪士と吉良上野介で言えば、圧倒的に赤穂浪士が善、吉良が悪という事になってしまいますが、はたして本当なのだろうか?という事に触れてみたいと思います。

毎年十二月十四日が近づいて来ると、必ず忠臣蔵のテレビが放送され、大石内蔵介は主演俳優、吉良上野介は悪役俳優が演じています。私が子供の頃の映画は大石と言えば片岡千恵蔵、吉良は月形龍之介が定番になっていました。ですから憎っくき吉良を討ち取る大石以下四十七士の活躍に一喜一憂しながら見ていたものです。
ところがものの本によると、吉良の領地であった三河の国では吉良の殿様は領民には慕われ善政を施し、大変に尊敬されており、今でも吉良の町では忠臣蔵のテレビは見ておらず、むしろ赤穂浪士は立派な吉良様を討ち果たした憎むべき暴徒としての見方があるそうです。
そうなると私達が当たり前に思っている良し悪しの基準はテレビや映画、本等から与えられた知識により判断されているものであり、決して自分自身で確かめ、学んだ結果とは言えない事に気付くことができるのです。つまり自分にとって善は白、悪は黒という二色の色分けでしか判断していなかったということです。

しかし一面からだけで物事を見るのではなく、裏表上下左右という見方をすると、今迄とは全く違った景色が見えて来ます。
ですから、白・黒の他、赤・青・緑等々の色を見る事によってより正しい判断が出来るのではないかと思うのです。
そうすると例えば、「あの人は意地悪で狡い人だ」という見方から、「あの人は意地悪ではなく、私の驕りの気持ちを諭してくれているのだ。狡いという事はこの様な考え方はしてはいけないのだという事を、身をもって示してくれているのだ」というとらえ方が見えて来るはずです。このように見てみると、人というのは自分以外全て師だという言葉の意味が実感されるのではないでしょうか。

とは言うもののイヤなものはイヤ、嫌いなものは嫌いと思うのが世の常です。そうした中でも見方を変えるだけで本当の姿が見えてくれば、暗闇の中に一条の光が差し込む様な気がしてなりません。ですから私達は少なくとも両面を見てどちらがより正しいのか、自分自身で判断する事が大事なのです。

大島 龍穏(おおしま りゅうおん)

大島龍穏

1946(昭和21)年生まれ 横須賀市鷹取在住 福井県 本楽寺 修徒
高校卒業後、神奈川県警の警察官となる。様々な死を目の当たりにし、家族を失った遺族の悲しみや苦しみの心に “ともしび” を灯すために横須賀署刑事一課強行犯係長時に警察官を辞め、僧侶となる。全国をまわっての講演や法要等に加え、無料相談所「みちしるべ」を立ち上げ、相談者の悩みを受け止めて解決に導く活動を開始。
現在、久里浜少年院篤志面接院会長。型にはまらない方法で仏教の教えを実践している。著書に『鬼刑事僧侶になる』(サンマーク出版) 『定年出家』(小学館)。
妙蔵寺では「心の時間」を共に主催され、お彼岸やお盆のお経まわりや行事法要をお勤めいただいております。

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